映画・読書感想記事は基本的にネタバレです。ご注意ください。

2008年01月12日

『乞食の子』頼東進

本を買う余裕がないので最近の読書は殆どが図書館である。どうしても手元に置きたいものはできるだけ古本で購入。普通に手に入れることはよほどでなければない。

これは図書館から借りたもの。
『乞食の子』頼東進著 台湾人の著者による自伝である。タイトルどおり乞食の子として生まれ育った著者の信じられないような過酷な子供時代が描かれている。
盲目で弾き語りをしながら放浪を続ける父と重度の障害者の母、そして自分も含め12人の子供がいる家庭を長男である著者は幼い時から一家の世話をその小さな肩に担う事になる。
激しい差別を受けながら何の補償も手助けもなく(心優しい施しはあるが)しかも行政からは取り締まりにあいながら子供である著者が父に殴られ、人々からは謗られ、ただ一日の家族の糧を洗面器に集めてまわる日常は想像を絶するものがある。しかも彼は私よりわずかに年上なだけでそんな遠い昔の物語ではないのがまたショックである。自分がのんびりと過ごしていた頃に彼はそう遠くもない台湾という土地でこのような日々を過ごしていたのである。
幸運にも(と言っていいのだろうか)あるきっかけから10歳と言う年齢にはなっていたが小学校に通うことになり並外れた才能を発揮して学業・運動に素晴らしい成績をあげることになる。無論そこにも彼のひたむきな努力がある。
彼がこの非情な生活のなかでさえ、家族への愛情をいつも失わずにいたことも豊かな現在の日本の家族の在り方とつい比べてしまうのである。

この自伝を読んでいて思いだすのは同じ台湾を舞台にした白先勇の小説『薛/子]子』である。
描かれている時代はほぼ同じ、か『薛/子]子』の方がやや後になるくらいだろうか。
特に『薛/子]子』の中の老鼠は同じ頼という名前であり、頼東進氏のお姉さんがまだ少女という年齢で買春を強要される場面はその老鼠が助ける事になる売春のために閉じ込められた少女を思い起こさせる。
頼氏自身は特に仲のよかった姉が自分の小学校入学のために買春せざるを得なかったことに衝撃を受け、なんとか助けたいと思いながらも何の手立てもなく泣くしかなかったのが、小説の中の頼少年は閉じ込められた買春少女を逃している、というのが不思議である。

著書はむしろ明るいタッチで書かれているものであるし、そのひたむきさ、家族(特に姉)への深い愛情など感動に溢れる話が次々と語られている。多くの人に読んで欲しい一冊である。
タグ:自伝
posted by フェイユイ at 14:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月01日

今年こそは!とか

あけましておめでとうございます。
いつも少しずつ書いていこうと思いながら却ってますます減少していくこのブログ。
今年もまたなにかちょこっとずつ書きたいものだとしつこく思ってします。
しかしほんの数行でも文章を書くのは難しいものなのですね。
とにかく気取らず、身の回りのことやTV新聞(雑誌は殆ど読まないので)ラジオで聞いたこと、読書の簡単な感想をと思ってはいるのですが。

読書は殆ど図書館で借りたものからと言っていいでしょうか。それでもいいのですが乱読なので考えがまとまらなくて。
買ったものでは『神の棄てた裸体』を読みました。イスラーム夜を歩くという副題で『そこで見たものは、戒律から外れたイスラームの性」という帯がついてます。
非常に生々しい描写による男女の売春や虐げられ差別される人々の性のあり方を興味深く読んだのですが、こういうものを読むとつい「でも普通のお嬢さんや奥さん方の性が知りたいのだよね」とか思ってしまうのです。しかし普通のお嬢さん・奥さん方の性というのはなかなか暴くのは難しいわけですよね。そういう人々は自分を隠すものですし。そういうのを書こうと思うならイスラームの普通の女性と結婚してその性生活をばらすしかないけどその相手が日本人の自分じゃ意味がないわけで、結局イスラームの女性と男性が書いたものを待つしかないのでしょう。
私はまだなかなか見る機会に恵まれませんが昨今はイスラム文化についての著作・映画など多く紹介されているように思えます。
日本女性も随分虐げられた存在(っていうのか、従順だとか、控えめだとか、男尊女卑だとか)と思われてきたように思えますが、それも事実でありながらそれだけとも言えない部分もあるし、大きく変わってきたところもあるわけで、イスラム圏のそういったことにも興味をひかれるのです。
posted by フェイユイ at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月09日

『車輪の下』へルマン・ヘッセ

『藍空放浪記』ばかりにかまけてしまって、つまり映画に夢中になってばかりでなかなかこちらに書くことができないでいる。
とはいっても、本を読まないでいるのかというと少し前より余計に読んでいるくらいなのだけど、文章にしようとするにはそれほど考えやら感想やらがまとまってはいないのでついつい書かずじまい。
しかも映画を観てから原作や関係の本を読むことがつい多くなる。

最近ちょぼちょぼ読んでるのはどういうものか『車輪の下』無論少女時代に読んだものではある。
ヘッセは他に『ナルチスとゴルトムント』を読んだくらいでそんなにのめりこんではいない。
『ナルチス』のほうは面白かったが『車輪』はなんだかそれほど感銘を受けたものでもなかった。

20年以上たって読み返して号泣したということはないのだが、やはりその文章のうまさ、ハンス少年の感情表現など惹きこまれて読んでしまった。
勉強漬けになりストレスのたまったハンスが懐かしい自由な頃の思い出のある小さな水車やウサギ小屋を思い切り叩き壊してしまう場面や食べたくもないチョコレートを勧められて捨ててしまう場面、ハンスをいつも優しく見守ってくれるフライク親方を半分軽蔑している彼の心が丹念に描かれている。

寄宿学校では友人ハイルナーの前に脱走しようとして死んでしまった少年の話などが後のハンスの行動に重なって見えてくる。
名作として人の心に残る作品というのはやはり面白いものなのだと改めて感じた。
以前はそうまで感じなかったハンスとハイルナーのキスも少年期の美しい情景として書かれていることにはっとする思いだった。
posted by フェイユイ at 14:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月13日

アクターズスタジオ総集編?を観ていたのだが

先日『アクターズスタジオ』の総集編みたいなのがあってて途中からだけど観ていた。
恒例の質問コーナーで司会者が「好きな言葉は?」などと聞くのだが今まで出演した俳優達がどう答えたかをまとめて見せていた。

数えたわけじゃないけどこの問いに対して一番多かったようなのは「LOVE」という答え。
これは勿論そうだろうなっていう答え。日本人だって同じかもしれない。だが2番目(と思われた)のは日本語だとちょっと答えない気がする。
それは「yes」日本語だと「はい」
日本人は好きな言葉は?と聞かれて「はい」とは答えないだろう。かといって「承諾」だとか「肯定」という言葉が好きってこともあまり考えられない。

英語の中でyesという言葉は特別な意味を持つ気がする。日本語でそのまま「はい」とは訳せない。
有名な話でオノ・ヨーコの個展でジョン・レノンが覗き込んだ天井に書かれた「yes」という文字をみて感激したというものがある。
あれを思い出すと余計に「yes」という言葉には日本語的にはすぐ理解できないものがあるのではないだろうかと考えてしまう。

「yes」には「受け入れる」とか「許す」とか「契約する」とかそんないろいろな意味を持っているのではないだろうか、と感じたのであった。

逆に嫌いな言葉は?で多かったのが「Can’t」ウームこれも日本語で答える人いないよーな。
「嫌いな言葉?」「できません」
確かに言うのも言われるのもいやだけどね。答えとしては言わないかな。

などと日本語と英語の使い方の違いの面白さを感じていたアクターズ・スタジオであった。
タグ:言葉
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2007年10月31日

昔の先生

最近、テレビのニュースで自分の中学時代の美術の先生を見た。
悪いニュースではなくいい方で、似顔絵の書き方を教えておられたのだ。先生は教師の傍らマンガも書かれていて且つ油絵でなんとか賞をもらって教師をやめ独立されたのだった。

無論随分と年をとっておられるわけだがどことなく印象が残っていたのと名前が特徴あったのですんなり思い出せた。それに絵を描かれてたわけだしね。

ただそれだけなんだけど、ぐーんと昔に引き戻されるような不思議な感覚だった。
映画ってこういうのよくあるけど自分で感じるとホント不思議なもんである。

posted by フェイユイ at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月25日

同性に最も好かれる男性は

同性に最も好かれる男性は「ベッカム」=ウェブサイト

5位までのランクイン
David Beckham
マット・デイモン
ティンバランド
ロジャー・フェデラー
ジャスティン・ティンバーレイク

私は男に人気がある男が好きなのだな、と思いました。ってマット・デイモンとダニエル・クレイグとジョージ・クルーニーだけだが(笑)
ベッカムも好きだけど。
タグ:男性
posted by フェイユイ at 18:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 愛情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月16日

何のために病院へ行くのか

具合が悪かったので病院へ行った。診察して何ともありませんと言われどういうものなのか、何が原因なのか聞いたのにも関わらず何も言ってくれない。薬を渡すと言われただけ。
薬をもらえるのはいいが、患者というのは不安だから病院へ行くわけで原因やどうすればよいかなど全く教えてくれないというのはどういうものなのだろう。薬以上に医者から優しい言葉をかけられきちんとした説明を受ける、その話し合いの部分が最も大切で必要であることをわかって欲しいのに。
決して安くはない料金を支払いながら一体何のために病院があるのか、そこへ行くのかよく判らないと暗い気持ちになって病院を後にした。
そのせいか、行く前より具合が悪くなってしまいますます困惑してしまった。病院に行かない方がよかったのかもしれない。
posted by フェイユイ at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月15日

蓮池の2羽のアヒル

近くのため池に2羽のアヒルが住んでいる。真っ白なのと胸だけが白い黒い奴。
通りかかるたび眺めるのが楽しい。
といっても何をするわけでもない。
白い奴はおしゃべりでいつもがーがー言っている。黒い方は控えめで時々短く、が、というだけ。
白い奴は好奇心旺盛で食いしんぼ。優しい人がパンを投げるとすぐ食いついていくがクロはあちらを向いているだけ。その優しい人はクロにもあげたくて一所懸命投げたけど何しろへなへなのパンなので遠くまで飛ばず結局全部シロが食べた。

蓮の花が咲く狭い池なのだが結構のんびり心が和む。
タグ:和み
posted by フェイユイ at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月13日

宮沢賢治

宮沢賢治の物語が好きで手元にもってる物を何度となく読み返しているがとにかく読み方が雑なので読んでいないものも幾つかあるという状態だ。
そういうのもきちんと読んでいきたいと思っている。

ところで中には読んでいたのにもかかわらず、なかなか意味が汲み取れないものもある。
『貝の火』がそのひとつだが、かわいいウサギの男の子ホモイが人助けをしたためにもらった貝の火の意味がわかりそうでわからない。
単純にホモイを「悪い人物」と受け止めて罰を受けた、ということにしていいのか。では貝は何をあらわしてるのか。

ホモイは無邪気な少年で溺れそうになった雲雀の子を懸命に助け、そのお礼として宝物である「貝の火」をもらう。水晶玉の中に美しい炎が絶え間なく燃えている。それを死ぬまで持ち続けた者は僅かだということらしい。ホモイは絶対自分は大丈夫と思っている。

素朴なホモイは助けた雲雀の子の醜さに驚き、宝物をもらったことで急にへつらいだした狐相手に威張りだす。
威張っている間はホモイがどんなに悪いことをしても貝の火は美しく燃えている。ホモイが悪賢い狐に恐れを抱いたとたん貝の火は曇りだし割れてしまうのだ。
ならば宝物と言われる「貝の火」は人助けをした者に対しどういう意味のお礼なのか。他人に暴力をふるっている間は美しく、怖れた時に割れるとは。しかもそれが割れた破片でホモイは盲目となるのだ(ホモイの父が「治してあげるから」と言ってることでもしかしたら一時的なものかもしれないが)
しかも死ぬまで持っていた者は僅かというがそれならその僅かな人たちだけは死ぬまで他人に酷いことをしていた、ということなのか。
狐にそそのかされたためとはいえ、モグラに対するホモイの行動は惨いものである。
だが一方親孝行な面であるとか時には過ちを反省する気持ちから見てもホモイが完全に悪者であるとも言いがたい。
つまりはホモイという人格は非常にリアルな人間的な造形になっているのだが。
「貝の火」が曇る時、読んでいても勿体無いという気持ちになる。どういう気持ちであったとしても雲雀の子の命を救ったのにどうしてホモイはこのような試練を受けなければならなかったのか。

判りそうでいてなんだかわからない。今後の謎解きである。
posted by フェイユイ at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月08日

『大江戸死体考』氏家幹人

氏家幹人氏の『大江戸死体考』というおっかないタイトルの本を読んでいるところだ。土左衛門だの心中だのはたまた刀の試し切りとさすがタイトルどおりの怖ろしげな話が続く。
その後に書かれていたのが「胆を取る話」とこれまた胆の冷える話である。
つまりは人間の生き胆が病に効くという信仰めいたことから死刑囚からできるだけ新鮮な胆を取り出す、というのならまだしも生きたままの少年から生き胆を抜いてしまう、という残虐極まりない話はさすがに縮み上がってしまいそうだ。

そういえばこのブログで以前、山本茂実「あゝ野麦峠」の中で工女が惨殺され下腹部がえぐられているという話が挿入されていてグロテスクなミステリーというその逸話があの物語の中で不思議な印象を落としていた。
さすがにTVの時代劇でこのような話は扱われないのではないか、と思うのだが(違うだろうか)巷ではこのような信仰めいたものがあったというのは恐ろしいことである。
今はそんなことは、と思うに生き胆どころか様々な内臓を生きている人間から取っているのが現実にあるわけで。中には色々な事情がある場合もあるだろうが結局昔とあまり変わってもいない、どころか進行しているのだな、と考えさせられてしまうのだった。
posted by フェイユイ at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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