映画・読書感想記事は基本的にネタバレです。ご注意ください。

2006年11月30日

ジェームス・ボールドウィンの「もうひとつの国」を映画化するなら

以前に一度記事にした「もうひとつの国」いつかきちんと書きたいと思いながら書けずにいた。自分の中であまりにも浸透してしまいどう表現していいのか見つからないのだ。
今もよくわからないのだが、少しだけ思いつくことを書いてみる。

極めて明確にリアルなタッチで書かれたこの作品は自分の中ではクリアな映像として浮かび上がってくるのだが、それでもいつかアメリカ映画として観てみたいものだと願ってきた。
だが(多分)その願いはかないそうにない。
物語の最後に1961年、と書かれているからすでに45年もの月日がたっているのだ(私もまだ生まれていない)
なのにその内容はいまだに古びた感じはしないし、そこに書かれている問題はいまだに解決してもいない。

この物語が(実際に映画化したい人がいるかというのは別にしても)映画化が難しく思えるのは、この物語の核となるのが二人の黒人の兄妹であるから、ではないのだろうか。
しかも二人は自分たちが黒人であることで白人から酷い差別を受けるということを繰り返し訴えるのだ。特に黒人のアイダを愛しながら白人であることで拒否反応を示されるイタリア系白人ヴィヴァルドは苦悩し続ける。
黒人作家であるボールドウィンがこの作品を書いて45年たった今でもその問題がなくなったとは言い難い。映画にしても黒人と白人がこのような形で苦悩をぶつけ合いまた愛し合うというものは数少ないのではないのだろうか。
そして黒人男性ルーファスが白人女性レオナに対してのサディスティックな恋愛(黒人のルーファスが白人のレオナを殴る)、同じくルーファスと同性愛者である白人エリックとの関係などどれも非常に問題を抱えている。

その分同じ白人同士、といってもフランス人の若者イーヴとアメリカ白人エリックの恋愛は同性愛とはいえほっとする雰囲気に満ちていてしかしこの白人の男性同士を黒人のボールドウィンがこうも魅力的に描いているのも不思議なのであった。

そのエリックとヴィヴァルドが(ヴィヴァルドは異性愛者なのにも関わらず!)肉体関係を持ってしまうのもこの物語の「いけない関係」の一つなのであろうか。もう一つ同性愛者のエリックが人妻と不倫関係に陥る。
まったくやってはいけない図鑑である。

「もうひとつの国」を映画化して欲しい。ただしあくまでも黒人のルーファスとアイダを主体にした作品として。
黒人の兄妹が単なる飾りとしての映画になってしまうのなら作る必要はない。
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2006年11月28日

「どくとるマンボウ青春記」北杜夫

北杜夫さんの本を熱心に読んでいた時期があった。人気シリーズ「どくとるマンボウ」ものである。なぜか小説の方はまったく読まなかったので申し訳ないが(後、村上春樹さんにとって変わる。氏の著書もエッセイばかりで小説を読んでいない)

好む本に限ってどこかに失くしてしまうことがままあり、北杜夫さんの著書で一番好きな「青春記」がどこかに行ってしまった。いつか出てくるだろうと思っていたがとうとう見出せず急に読みたくなって購入した。
久し振りに読む「どくとるマンボウ青春記」は思った以上に面白く、「果たして若くして読んでいたあの時期、本当に理解していたのか?」などと自分に疑問を持った。
これを読んでいた当時は私がこの中に書かれている青春時代である。書いているマンボウ氏は今の私よりも若いがそれでも自分が年老いて旧制高校生だった青春の日々を思い出して書いているのだ。その文章は若き日の愚かさと輝きを懐かしみ、笑い飛ばし、恥じ入り、憧憬も混じっているであろう愛情に満ちた筆致で書かれている。

はっきり言って若き自分にこの文章の面白さ、切なさを理解できているわけはない。
氏の文章の巧さ、おかしさそして旧制高校生という未知の世界に感心して読んでいたのだ。まあ、それはそれで充分楽しんで読んでいたのだ。

実はまだ全部読み返してはいない。
読み終えるのももどかしくまた勿体無く、自分が(運のいいことに)体験することはなかった「戦時中戦後の苦い青春時代」を今再び味わっているところなのだ。
タグ:青春
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2006年11月18日

「子供が生まれなくなった世界」

「トゥモロー・ワールド」という映画が来ていて「子供がいなくなった世界」というコピーを聞いて昔読んだ小説を思い出した(映画は観ていない)

と言ってもタイトルも作者も覚えていない上に「子供がいなくなったら」というテーマの物語は数多くある。
(ねたばれ注意だが、どうやって注意してもらうやら)
ひどく冷たい乾いた文章であった。
主人公の男はもういい年(30ないし40くらい?)なのだが世界で最も若い人間の一人なのだ。彼より年下の人間は存在しない。
生まれてくる子供は(惨い言い方ですみません)異常児ばかり。
若い彼は年上のものたちからずっと性的虐待を受けてきていた。普通かわいがられそうなもんだけどこの辺の描写がかなり容赦なかったような記憶。
が、奇跡的に若い女が生き残っており、主人公の男は彼女に夢を託して交渉を持つ。が、生まれてきた子供は結局異常児で彼女も死んでしまう。
というような夢も希望もないストーリー。
多分世の中に警鐘を鳴らす意味で書かれたのだろうが、全編惨たらしい雰囲気に満ち満ちてました。
北欧の小説だったような気がするけどとにかく何も覚えていない。
勿論、記憶のみで書いたので内容にも自信はありません。間違えてたらすみません。
このストーリーじゃ映画化は無理ですね。誰が観るであろうか。
でもこの映画の原作もかなり惨そうですね。
人間、怖い疑似体験をしてみたい気持ちはあるのだな。
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2006年11月01日

「赤毛のアン」の膨らんだ袖

「赤毛のアン」は特に女性にとっては話題の宝庫だが、自分と重ね合わせて思い出してしまうものの一つに膨らんだ袖がある。

いつもマリラから最小限の布地でキチキチの服しか作ってもらえないアンの夢は膨らんだ袖の服なのだが、私の少女時代も膨らんだ袖がはやっていてやはり憧れたものだった。
いつもはズボン姿が好きな私も膨らんだ袖のワンピースやブラウスを着てみたいと思ったのだ。
「赤毛のアン」が関係したのか偶然なのかわからないが親が買ってくれた膨らんだ袖のワンピースは濃い茶色のもので、レイチェル夫人が赤毛に似合うと言った色と同じである。
勿論アンが着た服と同じ色かどうかはわからないが何となくうれしく思ったのを覚えている(残念ながら自分は赤毛ではなかったが)

あの時以降、一部趣味の人を除いては一般に膨らんだ袖は流行ってないようだ、どうだろう。

自分の少女時代の思い出と共に女の子の憧れといえば膨らんだ袖、というイメージが私の中にはある。
posted by フェイユイ at 23:38| 香港 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月21日

ヨナタンとダビデ

この前「旧約聖書」の登場人物のことを「藍空放浪記」で書いてたんで、ついついヨナタンとダビデの箇所を読みたくなった。
読んだのはウォルター・ワンゲリンの小説「聖書・旧約篇」であるが。

第4部〜王たち〜の中のヨナタンとダビデの話が好きだ。年齢は10歳離れてはいるが深い友情を持つ若者たちの話である。
ダビデは有名なミケランジェロのダビデ像の彼だからどなたもご存知の美少年だ。この中でも小柄でそばかすのある白い肌と赤い髪、長いまつげ、金色の斑のある目で竪琴と歌のうまい少年として登場する。
一方のヨナタンは背が高く肌の色が濃いいかついからだの持ち主ということだが、ダビデに友情を結びたい、と恥じらいながら申し出る。

勿論彼らの愛は友情という名前から出ることはないと描かれているのだが、「女たちの愛にもましてきみを愛していた」とヨナタンを想うダビデをまたミケランジェロは愛したのであろう。

タグ:同性愛
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2006年09月09日

「李香蘭 私の半生」山口淑子・藤原作弥 (著)

名前は聞いたことがあるけど、よくは知らない、そんな人だった。安彦良和の「虹色のトロツキー」にわずかではありますがヒロイン麗花に似ている女優という設定で登場したのが少し知ったきっかけ、というくらいのものでした。
波乱万丈と言うけれどまさしくその言葉どおりの人生。でも本人はたまたま中国に生まれ、中国語が話せた(父親の教育のためだが)そして歌の稽古をしていた、ということで恐ろしい歴史の戦いの中に巻き込まれていってしまったのだろうか。
とはいえそのエキゾチックな美貌が彼女の運命を左右してしまったのは確かなのだろう。彼女は行くところでその国の血を持っていると思わせる不思議なところがあったようだ。
多分その時代にいたら李香蘭が日本人なのか中国人なのかきっとわからなかったに違いない。ご本人もはっきりとわからないでいるのではないのだろうか。確かに彼女は佐賀県人の父と福岡県人の母をもつ日本人なのだが、中国で生まれ育ち日本に戻ると体の具合が悪くなってしまうほどなのだから。そしてそんな彼女への日本人の仕打ちはその当時当たり前の言動だったとは言え、読んでいてもむかっ腹がたつものだ。故郷に憧れながらもそこに対して拒絶反応を持ってしまうのだ(日本人のメンタリティがなかなか受け入れがたかったようだ)

ここでこんな風に書いていてもとても彼女の半生を語りきれるものではない。却って誤解を生みそうで怖い。
そのくらい日本と中国の人々の間で揺れ動いた心をこの中で表現されていると思う。
中国人との深いつながりがありながらも日本人との交流もさまざまにある。そしてその名前の凄いこと。歴史の本を読んでいるかの如くである。
が、ごく身近な人とのロマンスもあってそれもまた彼女の魅力なのだろう、と思わせる。

「虹色のトロツキー」でもあった川島芳子は特に印象的な描写であった。
そして数多くの映画人、政治家たち。何も知らない少女は確かに彼らに操られ利用されているのだが、この凄まじい境遇をなんと力強く生き抜いていったのか。川島芳子のようにクスリに溺れてしまう人生を歩んだかもしれない。川島芳子本人が嘆くようにどこにも行き先のない末路だったかもしれない。

李香蘭は黒澤明監督の「醜聞スキャンダル」でその姿を見ることができる。山口淑子というのが彼女の日本人名である。

ここに書いたのは伝記の極々一部にしか過ぎない。
タグ:女性 歴史
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2006年09月08日

わたしを離さないで

イシグロ.jpg

ゾクゾクするような戦慄を覚えながら、没頭して読んでしまった。
(ネタバレになってしまうので未読の方はご用心ください)




あっと驚く謎解き、と言うように書かれていたように思うが、クローン人間という報道がされた時、こういう可能性を考えた方はかなりいるのではないでしょうか。
実は私も知ってすぐ色々な想像を働かせてしまった。無論、この小説のように明確なストーリーを考えたわけではない。
この中にも書かれているが内臓提供者をここまで丁寧に育てるのはコストがかかりすぎるし、人権にも関わる。
私は聞いたのか想像したのか覚えてないが、そのためにモノを考える脳の部分を未発達にさせるもしくはなくし(なくして生きられるのかは知らない)ただの生きているだけの提供者を保存しておくわけだ。
ところが惨いことに切り取ったはずの大脳が発達し、何人か思考できる提供者が存在してしまう。
そこで物語の主人公は内臓提供をしながらも思考する、という恐ろしい状況を考えてしまった。
この想像は暫く私の頭を離れず、自分がそのような者に生まれ変わったら、と思うと恐ろしかった。

カズオ・イシグロ氏の小説は私のようなSF的なニュアンスというよりもっとリアリティを感じさせられるものであり、むしろ呪縛された人間の悲しみというものを描くための設定としてあるように思える。

多分出発点は同じものだったのにこんなにも魅力ある物語、悲しい青春というストーリーが生み出されるとは。
イシグロ氏の文のせいなのか、キャシーという英語名にも拘らず、自己投影してしまう。もしかしたら、英語名というだけで日系なのかもしれない、とも思えてしまうし。

静かな語り口だが非常に迫力があり一気に読ませてくれる素晴らしい小説だ。

わたしを離さないで
タグ:生命
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2006年09月04日

家の中では素っ裸

トートツだが。
以前、村上春樹氏のエッセイを読んでたら「世の中には結構家では裸で過ごす女性が多い」というのがあった。
そういえば美しき叶姉妹もそうだとか聞いたっけ。そうじゃなくて中年主婦で裸で家事をするのが好きとか言う人は世の中に結構いるらしい。これは多分人には言えない秘密なんだろうか「信じられない。私は違うわ」なーんて言っても実は家では素っ裸ということもあるのだろうか?
と言うと真実味がないが私はたとえ一人暮らしでもマッパで過ごした事はなかった。裸より服を着ていたほうが落ち着く。でも裸好き(自分のネ)の方は裸でいる方がより快適なのであろう。夏が終わり少し肌寒くなれば裸主義の人も少なくなるのかもしれないが、この夏、家ではいつも素っ裸だったよ、という女性は少なくないのかもしれない。
タグ:主義
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2006年08月03日

久野久

何故これを買って読んだのか、今ではもう記憶がない。

有名な女流ピアニスト中村紘子さんの著書「ピアニストという蛮族がいる」の中に久野久というちょっと不思議な感じのする名前の女流ピアニストについての記述がある。
他にも様々なピアニスト達が描かれているのだが私にはこの久野久の描写が特に興味深く何度も読んだ。
彼女は明治後期から大正にかけて最も有名なピアニストだったらしい。といっても日本と言う国がまだやっと西洋文化に向けて開き始めた頃のことである。

日本人にとってまだピアノを弾く、ということ自体が馴染みのない時代の中でピアニストとなった一人の女性の背負った運命と言うのは読むのが耐え難いほど恥ずかしく辛いものだったようだ。
彼女の教官であった幸田延の話と共に日本でのピアノに対する認識は私も昔そう言われていたような、という記憶がある。
例えば、ピアノを弾く時手を丸めて高い位置から叩くように弾くとか、ピアニストと言うのは髪を振り乱してピアノを叩きのめすのか(どちらにしても激しい動きが必要)

久野久という日本ピアノ黎明期を歩まねばならなかった一人の女性の人生を著者は同情を含みながらも辛辣に書いている。

それは新しい文化に憧れ、立ち向かわねばならないものの宿命、なのだろうか。
タグ:ピアニスト
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2006年07月21日

小説「嫌われ松子の一生」を読んで

映画のレビューなど見てたら随分と面白そうな内容なのでDVD化を待てず小説を読んでみた。
無論映画と小説では違うものだろうから、同じような感銘を受けるとは限らないが、かなり惹き込まれて読み終えた。
こういうジャンルの小説を滅多に読まないのだが(特に日本のだと)どんどん読めたのは作者の力もあるだろうし、もしかしたら多分私がトシを取ったせいもあるのだろうなあ、と思えた。

映画を観てないので比較はできないのだが、かなりポップな感じに仕上がっている(ような)映画と違って小説はかなりリアルに徹している。
地味、といってもいい語り口でしかも内容は一女性がとことん堕ちていくさまを描きだしていく。
甥である青年が今はもういない、存在も知らなかった叔母の一生を探っていくと言う話だ。
大変面白く一気に読めた。

若い時は女性が辛い思いをする話、男から虐げられているような話、馬鹿にされているような話は物凄い拒絶反応があって読めなかった。
自分自身がかっこいい生き方をしていないのだから、せめて小説の中のヒロインは賢く強く美しくあって欲しかったのだ。

この小説の中での松子は私がかつて嫌っていた女性像そのものだ。勿論ストーリーはそれだけに留まっていないわけで読み応えのあるものなのだが、それとわかっても昔は受け付けきれなかったのではないか。
とは言え若くてもしっかりこの女性の人生を読み取る事ができる人もいるだろう。そういう人は凄いなと思ってしまう。
今でもそうだが私は映画や小説など虚構の世界ははるか虚構であって欲しいと思うのだ(そのくせリアリティがない!と批判したりするのが矛盾だな)

作者・山田 宗樹氏の力量だとは知りつつもそういう部分も許容できるような人間になってしまったのかな、と思うのであった。
それはうれしいことである。
タグ:小説 不幸 女性
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2006年07月17日

「トラベリング ウィズ チェ・ゲバラ」

ウィズ ゲバラ.jpg
トラベリング ウィズ ゲバラ

南米の映画をよく観るようになってどうしても気になる存在がチェ・ゲバラだ。
特にガエル・ガルシア・ベルナルの「モーターサイクルダイアリーズ」を観てからは次第に興味を持ち出しその時の相棒・アルベルト・グラナードの著書「トラベリング ウィズ チェ・ゲバラ」を読んでいる。
この旅行記はチェ・ゲバラも書いていて読み比べてみるのもいい。
読んでいると映画のシーンが思い出されますますいい映画だったなあ、と唸らされる。
何よりチェ・ゲバラ=フーセルとアルベルト=ミアル(僕のアルベルト、という意味らしい!)の友情が何ともいえず素晴らしい。互いを思いやり尊敬しあう姿にじんとするのだ。
フーセル(チェ)は酷い喘息持ちなので旅行においても大変だろうと思うのだが、それでもミアルは相棒として彼を置いて他にない、と言う感じで誘い、喘息が出た時には常に気遣って対処してあげている。
この本はグラナードが書いているので彼がいかに年下のチェに対し尊敬の念を持っているかが記されそれが感動的なのだ(他の人を褒める事ができる人、というのは素晴らしいことだと思う)
20代の彼らが決して裕福ではない時には悲惨な南米の人々の暮らしぶりを体験し、空腹を抱えながらも旅を続ける。時に自然は美しく描写され彼らのたびを彩る。
映画の中でも特に心に残るハンセン氏病院での出来事。サッカーの試合なども手記で読み返すとまたよいものだ。

将来革命家として有名になるチェ・ゲバラの若き日の旅がまさにその未来に繋がっているのだが、夢を語る若者の青春としても読み応えのある手記なのではないだろうか。

装丁が二人が乗った「ポデローサ(怪力)二号」ノートン500型、使い古しのバイクは何度も故障しながら南米の大地を駆けていく。一号は自転車だったらしい。すてきだ!
タグ: バイク
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2006年05月24日

植草甚一「映画だけしか頭になかった」の中の「羅生門」

羅生門.jpg羅生門2.jpg

昔、植草甚一さんの本が好きでよく読んだものだ。氏の本はおしゃれで知性があって物知りでとても楽しかった。タイトルからして「ぼくは散歩と雑学がすき」とか「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」だとか「知らない本や本屋を捜したり読んだり」なんてわくわくするようなものだった。

それで図書館で見つけて懐かしくなり「映画だけしか頭になかった」を借りてきた。
植草さんが好きな監督はヒッチコックとトリュフォーなんか。これでも趣味がわかると言うものですね。そういう時代の映画のタイトルがずらりと並んでいて殆どが西洋のものであるわけですが、この中に黒澤明監督の「羅生門」について書かれているものがあった。

「羅生門」が西洋で大いに受けた事はもう誰でも知っていることなのだけれど、植草さんは1963年9月20日号のタイム誌を読んだ時に「羅生門」の最高の賛辞を見つけたという話。

その内容は氏が書かれているようにワンセンテンスを書いても表せないものなので是非本を読んで貰いたい。
この本の“「羅生門」は映画的落雷だった”の一節である。これだけでもちょっとじんとする。
ちょっと紹介すれば「日本映画は人工の菊であって、そこには真実性なんかないんだと考えていた人たちの腹黒い心を八つ裂きにしたのだった」という箇所に喝采を贈りたい。
この「羅生門」方式は現在でもかなり使われていてしかも大体において面白く出来上がる。一つの物事はそれに関わる人によって違う思いを抱いているのは当然のことだし、しかも人の考えは思いもよらぬことがままあるからだ。しかも「独りよがりだ」と悪口を言われずにすむしね。
例えばチャン・イーモウの「英雄」とかこの前見たデンゼル・ワシントンの「戦火の勇気」もそんな感じであった。
無論「羅生門」の面白さはその奇抜な手法だけに終わるわけではない。三船敏郎、京マチ子の肉体の魅力と迫力ある戦いの場面そして光と影の美しさも比類なきものだったと記憶する。

まあ。いつまでたっても黒澤明ばかりではね、という声もあるのだろうけど、植草甚一さんのそれも1965年の文章に感激してしまったので書いてみました。
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2006年05月22日

「ミスターグッドバーを探して」

グッドば〜.jpg

無論映画で有名な「ミスターグッドバーを探して」である。私もテレビ放送で遠い昔観た(はずである)さすがに映画館では観てない。

教師である若い女性が夜は性的な関係を持つためにバーへ出かけては男を探す、という当時衝撃的な作品であった、と思う。
その衝撃と言うのはラストのことではなくやはり教師である真面目なはずの女性が性的関係だけを求めている、ということの方なのだったろうけど、子供の私は「教師とは言え、男も必要であろう。そんなに驚くか?」としか思っていなかったが、これは私が子供だったからでやはり衝撃ではあるだろうな。(ところで「欲望という名の電車」でも男を渡り歩くブランチは教師だったね。やっぱ教師ってとこがミソ)

とにかく映画はそれなりに面白かったんだろうけど私は本屋でこれの原作を見つけ映画よりそっちが面白かった。
覚えているのはテレサのイライラ感。小説の書き方のくだり。装飾的な文章は避け現実に起きた事を書けという話。
テレサが真面目な男は非常につまらなく感じてセックスしたくなくなる事。好きになった男が戦争に行った後遺症・シェルショックで毎日2・3時間しか眠らずにすむこと(夜更かしが酷かった私はこれが羨ましくてしょうがなかったものだ)なぜかラストは覚えていない。
小説で繰り返し読んでいてテレサが特に変わった女性とは思えなかった。もしかしたら私も将来こういう風になってしまうのかも、と思ったりもした。今からだってわからないしな。
タグ:女性
posted by フェイユイ at 19:41| 香港 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

少年の夢・海賊どものラム酒

子供の時(小中学生くらいの時期)小説を読む時大切なことは「子供が主人公もしくは重要な役で出ていること」と「その子供である登場人物が馬鹿にされていない事(子ども扱いされていないこと)」であった。
大人ばかりの小説も読んだかも知れないけどやはり子供が主人公の小説に比べれば魅力は半減した。子供は子供でしかないから異常なほどの能力を持っていたら却って興ざめだが、主人公が大人と充分渡り合って行動したり発言したりする話は凄くうれしく楽しいものだった。大人に頼ってしかいないような主人公は願い下げである。

日本の小説に比べ西洋の児童文学はまさにそういった魅力に溢れていた。特に冒険小説というカテゴリに属する小説が好きだった私が一番好きだったのがスチーブンスンの「宝島」である。主人公ジムはさほど天才的な能力を持っているわけではない。が、少年の夢である「宝島」へ宝探しに行くと言うわくわくする夢を現実にしてしかもとんでもなく荒くれの海賊どもと航海の旅にでる事になるのだ。お金持ちのトリローニさんと医者のリブジーさん意外は恐ろしい海賊ども。とんでもない酒飲みで人殺しも目の前で起きてしまうのだ。子供向け小説とは思えないリアルな表現にすっかり夢中になってしまった。
最近は「ワンピース」だとか「パイレーツ・オブ・カリビアン」なんかで海賊モノが結構ブームみたいである。当たり前だと思う。海賊というのはいつまでたっても少年達の夢の世界であるし、あって欲しいと思う。
と言っても私自身はやはり「宝島」の小説を読んだ時のようにはどきどきはしない。もう子供でなくなってしまったせいなのか?でも結局はこの二つにはジム少年が恐ろしい荒くれ男達に囲まれていく緊迫感に匹敵するものがない。
ジムが大きな船を操縦するシーン、それを教えてくれた海賊と戦うシーン、一本足のシルバーの謎めいた魅力。オウムの「八銀貨、八銀貨」というわめき声、ラム酒を飲む海賊達と少年ジムの物語以上にステキな海賊物語はまだ私は出会えてないようだ。
posted by フェイユイ at 19:06| 香港 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月05日

お菓子と麦酒

小説の中で食べ物が出てくるシーンが好きだ。

小さい頃から本を読む時、食べ物飲み物が出てくるとそれだけで幸せな気持ちになった。
特に私は西洋の小説が好きだったので「ウィルはお腹がすいたので持って来た背嚢からパンとチーズを取り出して食べぶどう酒を飲んだ」などという描写があると何とも言えずつばがわいてきて「美味しそうだなあ」と感慨にひたるのだった。無論これが「太郎はお腹がすいたので母さんがこしらえてくれたおにぎりをほおばりつけものをかじった」というのもよい。物凄いご馳走というのではなくこの辺の食べ物なのが余計うまそうである(ていうか高級料理だと味が想像できない)

甘党ではないのだが西洋モノはやたらとケーキやパイやビスケットなどを珈琲や紅茶でいただく場面があって私は心の中でよだれをだらだら垂らしながら至福につつまれ小説を読むのである。
アガサ・クリスティなんかは最高である。
映画になれば映像となるのでもっとよさそうだが、やはり食べ物は小説の中で特に魅力的になるようだ。多分これは私だけの趣味かもしれないけど。

最近は小説を殆ど読んでいないのだが、「[薛/子]子」を読んでたら台湾の食べ物が次々と出てきて実に美味しそうなのだ。(といっても台湾に行ったわけではないので完全に想像上だが)感動の物語を差し置いてまたもや胸の中でよだれをたらしつつ幸福にひたるのであった。

タイトルはサマセット・モームですが関係なかったですね(笑)でも「お菓子と麦酒」も食べ物シーンが美味しそうでした。大好きです。
posted by フェイユイ at 18:05| 香港 ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月18日

「和宮様御留」有吉佐和子

これがおもしろくて何回も読み直してしまうのですよね。
何が面白いか。勿論普段知ることもない京都言葉で話される明治以前の京の公家世界を垣間見れること。そしてはした女に過ぎないフキがこともあろうに皇女和宮の身代わりとなるスリリングな物語のおもしろさである。

勿論この筋立て自体が真実なのかどうか私には判らない。あとがきを読むと有吉佐和子さんはいくつかの事実を元にこの大胆なストーリーを書き上げているのだ。
この小説の魅力は私には判らないこととは言え全編で語られる女達の京言葉なんだろう。有吉さんは何もわからないまま将軍家と公家との間の戦いに巻き込まれる少女フキの運命を戦争に送り込まれる若者達となぞらえて書いたのだそうだ。
そこにまで気づくことはできなかったが、この小説が酷く引き込まれてしまう事は確かだ。
一度ドラマにもなっているみたいだけど、テレビでは放送しにくい(今の日本の状況では)部分があるのでリメイク、というのも難しいのだろう。
posted by フェイユイ at 19:03| 香港 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月24日

大好きなのは「アルプスの少女ハイジ」の闇の部分

コメントをくださったどぅいちゃんに触発されて書いております。

「アルプスの少女ハイジ」アニメ化もされたし日本では最も有名な児童文学の一つである。

物語は孤児になったハイジが人嫌いで有名なアルムのおんじの所へ預けられる所から始まる。天真爛漫なハイジの笑顔によって固く閉ざされていたおんじの心も優しくなっていく。だが突然ハイジは叔母の手によってフランクフルトのお金持ちクララの遊び相手として連れ去られる。ここでもハイジは暗くなっていたクララの心を解きほぐしていく。
美しいアルプスの大自然と心温まる人々とのふれあいに読者も感動するのだが、私はこの話の中でハイジが苦しむフランクフルトの話が一番好きだった。
大自然から離され、厳格なロッテンマイヤーさんの規則で明るいハイジは次第に生気を失い、やがて夢遊病にかかってしまうのだ。
お屋敷に幽霊が出没する!恐ろしい!ということで家の主人が友人の医者と見張っているとなんとそれは毛布を被ったハイジだった!というショッキングな一幕なのである。
友人の医者はそれがハイジのストレスからくる夢遊病だと診断し一刻も早くアルプスにハイジを帰すように勧める。
この部分が面白くて他の箇所はすっ飛ばして何度も読んだ。大自然も結構だが、少女の心理の方に年若い頃の自分は興味があった。ストレスによって夜中に歩き回り自分はそれを覚えていない、と言うのがぞくぞくするほど面白かった。
どうやら私の知人を含め多くの人はこの箇所が嫌いで早くアルムに戻って欲しいと願うようである。多分、こちらが人間として正解なのだろう。暗い廊下を無意識に彷徨う幼女など可哀想ではないか。

私のこうした異常心理に対する興味と言うものは後々の趣味にも色濃く作用しているものだなあと改めて思い起こしたのだった。

どぅいちゃん、記事のきっかけありがとう!
posted by フェイユイ at 00:57| 香港 🌁| Comment(3) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

「カロリーヌとおともだち」ピエール・プロブスト

冬季オリンピックを見ていたら思い出したものに「カロリーヌとおともだち」がある。フランスの童画家ピエール・プロブストの作品で可愛い女の子カロリーヌとお友達である動物達の物語が一枚の絵と簡単な文章で語られている。子供の頃、これを読んで大のお気に入りだったのだが、今見ても抜群に絵がうまくカロリーヌも動物達も凄く可愛い。さすがにフランス生まれだけあって何ともおしゃれなんである。
カロリーヌはみんなのお姉さん的存在ではあるけど明るくお転婆なとこもあってかわいらしいことこの上ない。動物たちの可愛さも格別で猫・犬・ライオン・熊・豹がいるんだが、子供の頃どの子が一番可愛いか考えて楽しんでいた。決めがたくはあるのだが、私は一番いたずらっ子な白い子猫のプフが好きなのだが、甘えんぼの黒と白の小犬のボビーも捨てがたい。

で、何故これが「冬季オリンピック」で思い出されたかというとこの中でカロリーヌたちは色んな事をするんだけど「げんきですべろう」というお話ではアルペン・エクスプレスに乗って冬山へ遊びに行くのだ。ここで彼女と動物達はスキーを教えてもらったりリフトに乗ったり子供は禁止されているボブスレーをやったり、ジャンプまでやってしまう。
九州生まれの私には全く羨ましいばかり。ヨーロッパという所はなんと素敵なんだろうと(日本でもやってるんですが)子供心に憧れたものでした。
だもんでスキー・スケート・ジャンプというともう必然的にカロリーヌとおともだちを思い出してしまうわけです。

現在この小学館のカロリーヌシリーズはもう出版されていないのでしょうか。私は小学館から発行された「カロリーヌとおともだち」「カロリーヌのつきりょこう」「カロリーヌのせかいのたび」を持っていて愛読したためぼろぼろですが、大切な本のひとつです。
(別の出版社からはでているようです)
posted by フェイユイ at 15:01| 香港 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月09日

「注文の多い料理店」宮沢賢治

宮沢賢治さんのお話は好きなものがたくさんある。どれもとても可愛らしい印象を持っている。お話も面白いのだが、その文章自体が音楽のような魅力に溢れているのだ。
「注文の多い料理店」は特に有名なものの一つだが、推理もののようでSFのようで絵画のような面白さもある素晴らしい短編だ。上品な語り口でしかも非常にユーモアに富んでいる。こんな短い小説の中にどうしてこんな豊かな世界が描けるのだろうか。

「西洋料理店 山猫軒」なんてあったら入りたくなってしまいそうだ。また扉があったらどうしよう。「遠慮なくどうぞ」と書いてあったら次へ進むべきだろうか。

勿論これは遊びで猟をして山の獣達を殺してしまう紳士気取りの二人の男を山の獣達が復讐しているのだが、こんなに愉快に表現できる人はいないだろう。

こんな美しい文章を読んだ時は本当に幸せな気分になってしまう。
posted by フェイユイ at 00:10| 香港 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月28日

「狼王ロボ」と「ヘレン・ケラー」

小学生の頃、めちゃくちゃ何度も読み返した本がシートンの「狼王ロボ」と「ヘレンケラー 奇跡の人」である。
どちらも借りて読んだものでいい加減買えよ、と自分に突っ込みたくなるほど借りて読んだ(お金がなかっただけだけど)
別に二つに共通点はないと思うがどうだろう。
有名なシートンの「狼王ロボ」は誇り高き狼のボス・ロボと人間達との知恵比べである。人間達が必死で脳みそを絞ってもロボの智恵にかなわないというのが物凄く小気味よかった。が、そのロボも愛する女(女房)のために失敗してしまうというのも何とも男らしくて素敵だと感じたものだ。完全に狼側にまわって読んでいたはずである。
「奇跡の人」も有名だ。三重苦に立ち向かいけなげに成長していくヘレンとサリバン先生の感動作ではあるが、私がこの作品に惹かれたのはどうしてなのだろう。殆ど獣と変わらぬヘレンを導いていくサリバン先生の苦悩に大いに感心したのであろう。
ということは、この二つの作品は(失礼な言い方で申し訳ないが)獣あるいは獣的な存在のものとの戦いのドラマであるというのは共通している(重ねてヘレンさんの威厳を損なう発言で申し訳ないがそういうつもりではありません)
ただ一方は人間が破れ、一方は人間が勝利している、というのも興味深い。

まあ、何十年もたって無理矢理こじつけたのだが、たくさん愛読した著書の中でも特に記憶に留まるほどこの二つを読み返したのは確かである。
posted by フェイユイ at 19:13| 香港 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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