映画・読書感想記事は基本的にネタバレです。ご注意ください。

2007年07月14日

「テヘランでロリータを読む」アーザル・ナフィーシー

図書館で借りてもう返してしまったのだが、思っていた以上にまさしくテヘランで「ロリータ」という本を読むことについて書かれていた。
というのはもう少し女子学生たちの感想の部分が多いのか、と思っていたのだが、文章の多くはその行為がどのような意味をもつか、ということに割かれていた。

話されていた感想自体は以前自分が書いていたこととそう違わないのではと感じたのだが、そういった勉強会を持つためにまるで秘密会議でも開くかのような意気込みやそれを著作にするために少女達の名前を偽名にするだけならまだしも話し方や服装から連想させて本人とばれるといけないからキャラクターも変えてしまったという説明には驚いた。無論容姿の説明も本人と違うものになっているわけで、元の本人の姿はばらばらになってるのである。
そこまで注意しなければいけない世界とはなんだろう。誰もが文学と呼ぶ小説の勉強会をしているだけなのに。日本でなら見栄を張って宣伝してしまうくらいだ。
しかも最初はなかなか思ったことが言えない。著者である教師が教室で生徒に発言をさせると教師が説明したとおりのことしか言わないので怒りが爆発する場面があった。
怒られた生徒はなぜ怒られたのか判らない。本人は懸命に教師の教えを暗記したのだ。だが西洋的学問をした教師は生徒に自由な発想を求めていく。

本作の中には第一部 ナボコフ、第二部 ギャツビー、第三部 ジェイムズ、第四部 オースティンが書かれていたのだが、私が特にジェイムズとオースティンはしらないこともあってナボコフの章がやはり面白かった。
もう一つ「ロリータ」が書かれたアメリカ(作者はロシア人だが)や日本の今と大きく違うのは「ロリータ」の主人公のように12歳の少女と30代、40代男が結婚するのはイランではまったく異常なことではなく正常な成人男性は9歳の少女を妻として迎えるのを希望しているというのが当たり前だというのだ。
そういうことを初めて知ったわけではないが「ロリータ」の中で最も重要な問題が当たり前のことだというのはなんとも言いがたいものがある。今の日本でも12歳の少女と40歳の男が結婚するというのは(法律的に無理というのがまずあるが)認めがたい。ましてや9歳なんて。本として書かれていても信じがたい。
つまりはロリータが12歳である、ということが異常ではない世界でも「ロリータ」に描かれている少女の拘束感、自由になれない悲劇、というのは共感できるものなのだ。



posted by フェイユイ at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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