映画・読書感想記事は基本的にネタバレです。ご注意ください。

2007年07月19日

「恐るべき子供たち」ジャン・コクトー

萩尾望都のマンガで読んだのが先だった。ために小説を読んでいても全ての映像が浮かんでくる。
この小説、もしかしたら萩尾望都のマンガを読んでなければここまで入り込めなかった気がする。

主人公達が甘い運命を享受し、自堕落といえる気ままな生活を送っていく小さな部屋。麻薬を使わなくても夢の世界を漂う事ができる彼らに羨望の目を向けてしまってもしょうがないだろう。
特に姉リーズが結婚して大きな屋敷に住んだのに広間の片隅を衝立で区切って自分達の世界を作ってしまうのが素敵であった。

登場人物で印象的なのはダルジュロス。といってもこれも萩尾氏の影響かもしれず。
ポールにとって憧れの少年はアタリーという美女になって芝居をし、後にアガートという女性にその姿を重ねられる。

ほんの短い小説であるのにかき立てられるイマジネーション。訳をした画家・東郷青児のあとがきに「この小説には色がなく、時折赤い色がさっとひらめくだけ」(おおよその記憶)というのが心に残る。






posted by フェイユイ at 22:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月14日

「重傷ですが命に別状ありません」

最近ニュースなどで「重傷ですが命に別状はないということです」と言う。どういう状態なんだろう。字数は多いがよくわからない。

どういう意味なんだろうといつも思う。ケガをしてしかも重傷なら何らかの影響は残るはずだ。
今は平気でも後で何かあるかもしれない。そこまで判るのか。後遺症が残っても命に別状はない、というのか。
命に別状あると言うのは報道で聞いたことがないが本当にないんだろうか。

言えるのはそのままの言い方なら「重傷ですが、現在のところ死んでいません」てことだろうけど。
「重傷ですが今生きてます」というポジティブな言い方でもいい。

なんだか適当な言い方というのはいつもあるものだが、妙にひっかかるので書いてしまった。
ラベル:言葉
posted by フェイユイ at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「テヘランでロリータを読む」アーザル・ナフィーシー

図書館で借りてもう返してしまったのだが、思っていた以上にまさしくテヘランで「ロリータ」という本を読むことについて書かれていた。
というのはもう少し女子学生たちの感想の部分が多いのか、と思っていたのだが、文章の多くはその行為がどのような意味をもつか、ということに割かれていた。

話されていた感想自体は以前自分が書いていたこととそう違わないのではと感じたのだが、そういった勉強会を持つためにまるで秘密会議でも開くかのような意気込みやそれを著作にするために少女達の名前を偽名にするだけならまだしも話し方や服装から連想させて本人とばれるといけないからキャラクターも変えてしまったという説明には驚いた。無論容姿の説明も本人と違うものになっているわけで、元の本人の姿はばらばらになってるのである。
そこまで注意しなければいけない世界とはなんだろう。誰もが文学と呼ぶ小説の勉強会をしているだけなのに。日本でなら見栄を張って宣伝してしまうくらいだ。
しかも最初はなかなか思ったことが言えない。著者である教師が教室で生徒に発言をさせると教師が説明したとおりのことしか言わないので怒りが爆発する場面があった。
怒られた生徒はなぜ怒られたのか判らない。本人は懸命に教師の教えを暗記したのだ。だが西洋的学問をした教師は生徒に自由な発想を求めていく。

本作の中には第一部 ナボコフ、第二部 ギャツビー、第三部 ジェイムズ、第四部 オースティンが書かれていたのだが、私が特にジェイムズとオースティンはしらないこともあってナボコフの章がやはり面白かった。
もう一つ「ロリータ」が書かれたアメリカ(作者はロシア人だが)や日本の今と大きく違うのは「ロリータ」の主人公のように12歳の少女と30代、40代男が結婚するのはイランではまったく異常なことではなく正常な成人男性は9歳の少女を妻として迎えるのを希望しているというのが当たり前だというのだ。
そういうことを初めて知ったわけではないが「ロリータ」の中で最も重要な問題が当たり前のことだというのはなんとも言いがたいものがある。今の日本でも12歳の少女と40歳の男が結婚するというのは(法律的に無理というのがまずあるが)認めがたい。ましてや9歳なんて。本として書かれていても信じがたい。
つまりはロリータが12歳である、ということが異常ではない世界でも「ロリータ」に描かれている少女の拘束感、自由になれない悲劇、というのは共感できるものなのだ。



posted by フェイユイ at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月09日

ママへ

たまにある話。

店先で母親が小学生くらいの娘に何か買ってあげようとして「○○ちゃんが欲しいのを何でも選んでいいわよ」なんて言う。
そのくらいの娘というのは大体変なものが好きなので「これとかこれとか」とおかしなものを選ぶ。
すると何でもいいと言った母親「あ、それは色が悪いし、これは長持ちしないわ」なんて言い出す。
娘は母親に逆らうのはどうせ無理だし、言い返したって得にはならないともうしっかり悟っているから「じゃあそれでいい」なんて答えてる。母親、にんまりして「いいの選んだわね」なんて言ってる。

親としてよい物を選ぶ勉強なのかもしれないが「何でもいい」と言っといてそりゃないだろ、とこっちが言いたくなる。
そんなら初めから「全てママが選びます。あなたには選ぶ権利はないのよ」と言ってくれ。束の間の希望を与えて奪わないでくれ!!

・・・などと傍で憤ってる私はその娘さんよりガキだろうか。

私も母親ではあるが。
posted by フェイユイ at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月08日

続・「朝日百科・世界の文学」6.7南北アメリカ

昨日の続きを少し書いてみる。
アメリカ文学というのはこうして見て行くと自分でも驚くほど影響を受けていたとわかる。全てを読んではいなくても知っている作者名、タイトルが数多くある。ただ知ってはいても驚く事もある。
慎み深い家族の姿を描いて名高い「若草物語」のオルコットが様々な名義で全く違ったジャンルの小説を書いていたとは思いもしなかった。「愛の果ての物語」というゴシックホラーなどがあり、それらには裏切り、暴力、復讐、悪漢、逃亡、阿片中毒、誘惑、近親姦、強姦などが描かれているということである。確かに才能ある作家がたった一冊の本しか書いてないということは考えられないのだが、「若草物語」のいう代物が自分の好む世界ではないのでオルコットの他の作品を調べようなどと思いもしなかったのである。
そういう内容なら読んでみたいと思ってしまうのだが。
また最近映画でやっと知った名前、シルヴィア・プラス、そして他にも女性として閉ざされた世界でもがき飛び出そうとしていた多くの女性作家の名前が続く。そうした女性達の叫びにも似た数多くの小説があり女性達が自由に動きだそうという様々な試みが小説を通じて表現され実際の行動にもつながっていくのがアメリカ社会の一つの現象なのだろう。
posted by フェイユイ at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月07日

「朝日百科・世界の文学」6.7南北アメリカ

図書館で「朝日百科・世界の文学」6と7を借りた。
南北アメリカの文学についての本なのだが、とにかく写真や絵がふんだんに載っていて楽しい。他の国のものはまだ見てないのだが、少なくともアメリカ文学は映画・芝居と強い関係を持っていることがわかる。
取り上げられた小説家の数も相当なものでここで一気にまとめてはとても言えないのだが、アメリカ文学というものが絶えず「アメリカ人とは何か」という課題の元で作られ続けているという箇所が興味をひいた。
そして様々の差別と偏見、人種ということは勿論女性ということでもアメリカ文学は常に戦い続けているのである。

北だけでなく南アメリカ文学の記述も大いに惹かれるものであったし、これは本当に読み応えがある。但し買うことは殆ど無理である、12巻セットで12万3千円を越えている。これを思案することなく買える人は羨ましいが私には到底無理。
暫く図書館通いで全巻読んで行くしかない。かなり大きいので自転車乗りの私にはそれもなかなか大変なのだがちょっと楽しみである。
これを見てまた観たい映画も発見できた。
posted by フェイユイ at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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