映画・読書感想記事は基本的にネタバレです。ご注意ください。

2007年05月22日

「鉄コン筋クリート」松本大洋

破壊的で町を荒しまわるクロ。クロはシロを守る事が自分の役目だと思っている。でも本当のクロは脆い部分を持っていてシロがクロを守っているんだった。

何度か、この感想を書こうと思ってまた挑戦してるんだけど、どうにもうまくいかない。
別に書かなくてもいいのかもしれないし。

とにかくクロもシロも大好きなんだ。
こういう二人組み、って言う話が好きで今までもいろいろ読んだり観たりしてきたんだけど。
大体強い方と弱い方、頭がいい奴と悪い奴、大きいのと小さいの、かっこいいのとかっこわるいの、って組み合わせなの。
で、どっちが好きかってことになると私が好きになるのは弟分のほうなんだ。これでいうとシロのほう。でもホントのホントは兄貴分の方が好きなんだ。っていうか兄貴分の方に自己投影してしまうの。だから弟分の方を好きになってしまうんだよね。

これでも自分はクロなの。クロの気持ちになって考える。
シロが好きでシロに憧れるけどシロにはなれない。それはクロ自身の気持ちと同じだと思う。
クロとシロはずーっと好き合ってるのにクロはシロを思うがために嫌いなフリをしてしまう。
そしてもう一人の自分にシロをねたましく思っているんだろうと見抜かれてしまう。
でもその時のクロはもう素直になっていてシロが好きだと言えてよかった。こういうのってみんなもあってもなかなか認め切れなくてすねてしまったりする事がある。
本当に誰が大事なのか判っているのにそれを気づかぬフリをする時もある。
シロがずっとクロの事を思っていてくれてうれしかった。
海の近くに移り住んだ二人が幸せそうでうれしかった。ちょっとうらやましくて妬ましいくらいだったよ。
シロが安心して暮らせること、クロがシロの面倒を見て暮らせること、それが一番の幸せだね。
タグ:友情
posted by フェイユイ at 20:33| 香港 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | まんが | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

何にお金をかけられるのか

今まで殆どやったことがなくてこれからもやらないだろうと思うのが遊園地遊び(なんていえばいいんだ?)とゲーセンでのゲームである。
まったくやったことがない、というわけではないが、どちらもそれらの遊びにお金を出すのが極端に勿体無くてどうしてもできない。本やDVD、CDに金を出すのは全然平気(所持金がありさえすれば)なのにゲームなどに金を出すのは捨てているのと同じ気がするのだ。これはまあ普通の感覚なのか?それとも今の人間としてはずれているのか、それすらよくわからない。
ゲーセンでのゲーム、と区切ったのはもしかしたら、ソフトを購入するようなことはあるかも、という気弱な予防線である。つまり興味はあるがケチなのである。だが本にはケチでなくなる。あったらあるだけ使ってしまうのだ。ゲーム好きで本など興味がない人たちにはこれもおかしな感覚なのだろうな。

まあ、当たり前の話をしてみました。
タグ:遊び
posted by フェイユイ at 18:38| 香港 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月09日

「ロリータ」ナボコフ・U

前回書ききれなかった分を少し書き足す。と言うのもこの膨大な情報量の小説のセンテンスごとに感想を書いていては書ききれないがそのくらいしたくなるほど面白いセンテンスが多いからなのだが。

前回書いたことであるが、この小説のポイントはハンバートによる一人称にある。
すべての出来事、考えはハンバートが描いたものでロリータことドロレスの思いはそこに描かれない。
この小説をロリータが書いたらどうなったんだろう、とも思う。そういう試みをした人もいるのだろうか。
だがロリータが書く文章、ということでこの知識の詰め込まれた遊びだらけの文章の醍醐味は失われ、語彙の少ないたどたどしいものとなるだろう。それとも年を重ね落ち着いたドロレスが少女時代を思い出して書くのか。それだと的確かもしれないが、読者の興味は半減してしまうかもしれない。私はそちらの方がいいと思うが少女の痛みの部分は薄れてしまうのはしょうがない(小説としても)

最古の長編小説と言われまた素晴らしい恋愛小説でもある「源氏物語」のヒロインは紫の上である。
彼女と源氏の出会いは現代から見ればロリータの物語と同じに見える。身寄りのない幼い紫を源氏が引き取って育て、少女の時に(結婚と言う形ではあるが)その処女を奪ってしまう(と言ってもいいだろう)
だが作者が女性のためかその後の展開は違ってくる。源氏はずっと紫を妻として最後まで愛する(当時の常として浮気はするが)源氏物語は女性に好かれる小説だが、その辺の違いは当然関わっているはずだ。

そしてこの小説を男が読むか女が読むかでもまったく感想は違うはずだ。小説自体の面白さに感心しながらも反感を持ってしまうのは私が女性であるからで、しかしやはり面白い、という快感と反感が交互に襲ってくるのだ。
男性の欲望が装飾に彩られているとはいえ、巧妙に自己弁護されているとはいえ、正直に表現されていることにも興味は尽きない。

最近タイトルを見たのみだが「テヘランでロリータを読む」と言う本が出版されているようだ。非常に興味をそそられるのだが、まだ読む機会がない。テヘランとロリータという一見つながらない二つを合わせた気になるタイトルである。読んでみたいと思う。

タグ:ロリコン
posted by フェイユイ at 10:34| 香港 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月08日

「ロリータ」ナボコフ

「藍空放浪記」でも書いたが(以下の文章かなり重複している)毎日「ロリータ」を読んでいる。昔読んだのと違う新しい訳だが読みやすい。
少女にのみ本当の快楽を見出すハンバート・ハンバートの一人称からなるこの長編小説を何度も読み返してしまう面白さというのは何だろう。
ヨーロッパからアメリカへ来たこの中年男(と言ってさしつかえないだろう)は確かに可愛くはあるがやや蓮っ葉としか言いようのない少女に夢中になってしまう。
ハンバートが自分のすべての欲望を込めて呼ぶ「ロリータ」という少女(今では完全にイヤらしい名前と化してしまった。気の毒な)ドロレス・ヘイズが12歳から15歳くらいまでの性愛の物語である。

まず惹かれたのはロリータが普通かもしくはかなり意地悪で低俗な嗜好の持ち主であること。
ハンバート好みの小柄で細い肢体を持ち、彼の欲望を掻き立てながらも精神は崇高でも神秘的でもない。
ある意味、ハンバートはその絹のような手触りの細い体だけを欲しているのかと思えるのだが事実そのとおりであり、ロリータが15歳をこえると彼らの性愛の暮らしは終わりを告げる。その後、ロリータが別の男と結婚したりハンバートが犯罪を犯したりするが、これはロリータが成長してしまい話は終わった、ということにしか思えない。むしろ大きくなっても愛してる、と言いながら事実大きくなったロリータに同じ愛情を持つかといえばそんなことはないからで、そのことはハンバート自身が語っている。曰く「ロリータが娘を産み、その子が12歳になればまた同じように愛し、そのまた娘が12歳になる頃老人になった自分にもう一度チャンスが訪れる」と。
がそれは語られただけで小説の筋にはならなかった。
結末近くハンバートは大きくなったロリータへの愛情を盛んに口にするがそれはもう戻らない彼女への追従に過ぎないのだ。

多くの人は「1部は面白いが2部はつまらない」と思うらしい。自分的には2部の二人の北米放浪に興味を持った。
ここでハンバートはロリータに幾度となくセックスを求めている。中年男がどこにも行き場のない13歳の少女を連れまわし、その見返りに肉体を要求していくという怖ろしいストーリーだ。ハンバートはここでむしろユーモアを交えた軽みのある語り口をしているのだが、当のロリータがどのような気持ちでハンバートに抱かれていたかは描かれない。
二人の結末となるロリータの口調からしても彼女がハンバートを嫌っていたのは間違いないのである。単純に性交渉だけを求めるわけでなく体を撫で回すようなハンバートとの生活がロリータに心地よいわけもない。

小説は一人称で書かれているため、ふと疑問に思うこともある。ハンバートが嘘を書こうとすれば書けるのだ。無論、この方法がまかり通れば何を信じて小説を読んでいいかわからない。すべて嘘だと言ってしまえばお終いだ。
ただロリータの母親が突然死んでしまうところ、学校で演劇に夢中になっていたロリータが突然ハンバートに旅をしたいと言い出す場面は奇妙である。
物凄く勝手を言ってしまえばこの2箇所は後に手記をしたためたハンバートが巧妙に嘘を書いたのではないかと疑ってしまうのだ。

こう書いていっているとハンバートをただおぞましい変態だと言い立てているようだ。
何故こう書いたかと言うと、それにも拘らず、彼の書くロリータ像、ロリータへの賛美、ロリータとの生活が魅力的でまたロリータを最高とする少女愛の対象となる「ニンフェット」の定義、筋書きを彩っていく様々な知識と言葉遊びの楽しさが尽きないのだ。
あまり讃えすぎてハンバート自身に賛同しているかと言われれば女性としてロリータを単なる欲望の対象としてしか見ていない気持ち悪さは無視できない。
だがロリータが同じ少女趣味の男を好きになっているのにハンバートを愛する事はなかったことがこの小説の救いになっているとも思える。
時々ハンバートに騙され、ロリータに反感を覚えてハンバートに同情する人もいるがそんなことをする必要はない。
文章は素晴らしいがハンバートが愛しているのは10代前半の肉体を持つロリータなのであって彼は満足しているはずであり、大きくなったロリータと再び暮らすことになってしまったなら、ほどなく別の少女のスカートに顔をうずめに行ったはずなのだ。

後半、ロリータを本当に愛してしまったかのように書くハンバートの欺瞞とロリータがどう言われても戻らなかったことでむしろハンバートが年老いたロリータと暮らすことがない身勝手さを感じ、ますます巧妙な小説だと感心してしまうのだ。
タグ:ロリコン
posted by フェイユイ at 00:00| 香港 | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月06日

理想の父親って

家族、特に父と子について考えることがままある。
自分が子供時代から人気で今も絶賛上映中の物語「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる目玉親父は最も大人気のキャラクターだが、その目玉親父と鬼太郎の親子愛は深く泣ける話である。子煩悩で厳しい所もあり理想の父親像の一つだろう。
星一徹とバカボンのパパ、どっちに父親になってもらいたいか、殆どの人がバカボンのパパだと思うけど優しくて怒らないからという理由だと思う。

世の中には威厳のある父、怖い父、怒りっぽい父、といったあるイメージがあるが自分の父親が優しくて怒ったりしない人だったのでどうも想像するのが難しい。
結婚した相手の父親も優しいパパである。昔風の居丈高な父親とは縁がないのか。
そういう境遇であるせいか、威張り散らす父親像というのは苦手である。娘に甘ーい父、というのは想像できても娘を怒鳴り、支配下に置くようなのは理解しがたく映画や小説の中だけのもののようにさえ思う。

「生きながら火に焼かれて」という本を読んだ時、感想として「どうしてこの親父は娘を可愛がらないんだ?」というトンチンカンなものが最初に出てきた。
父親なら娘が可愛くて母親に隠れて何か買ってやり「パパ大好き」なんていわれてやに下がっている存在であるべきだ。
馬鹿馬鹿しい意見とは思いながらも土地や慣習や宗教の違いと思いながらも仲良く出来ないのがただ不思議だったのだ。
(アレを読んでいると「子供が可愛くない親はいない」なんていう言葉の頼りない事。子供を可愛く思うのは単に習慣のせいではないかと思えてくる)

娘に甘い父親、というイメージが強い日本でもそこまでなくとも娘そして息子に厳格な父親はいることだろう。
たまにそういう父親の話を聞くとへーまだいるのか、と驚いたりするのだが、それとも私が知らないだけでそういう男尊女卑&高圧的父親というのはたくさんいるのだろうか。

勿論厳格=駄目で甘い=いいパパっていう図式ではないことは当たり前である。
目玉親父はその辺のバランスがうまくてしかも尊敬される父親である。しかも可愛い。自分にとっては理想のパパ像である。別に物を買ってもらう必要はないし。お風呂を用意するだけであんなに喜んでもらえるならうれしいのである。

理想のパパにかっこいい芸能人の名前をあげるのっていうようなのはしょうがない意見だけどそういう人のお父さんっていうのはきっといい人なんだろうな。嫌な親父を持ってたらもっと切実な答えになるだろうし。

あんまり頼りにならなくてもかっこ悪くてもいいから優しいパパ、そういうのが一番いいな。

posted by フェイユイ at 00:00| 香港 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。